「美の歴史」
ウンベルト・エーコ(編著)
植松靖夫(監訳)川野美也子(訳)
東洋書林
「美」という規範の迷宮の奥へ
版型は、B5ぐらいだが、ずしりと重い。ページをめくると、古代ギリシアから20世紀までのあらゆる時代に創られた絵画、彫刻、建築、デザイン、写真がぎっしりと収録されている。全440ページに登場する作品の作者だけでも、200名におよぶ。時代としては、中世までが3分の1で,のこりがルネサンスから現代。作者が特定されない時代の場合には、「カピトリーノのヴィーナス」(ローマ時代の模刻)とか「聖カルミンの聖遺物箱」(11−12世紀)のように通称でリスティングされている。
巻頭には、〈裸体のヴィーナス〉〈裸体のアドニス〉〈着衣のヴィーナス〉〈着衣のアドニス〉〈聖母マリア像の変遷〉〈君主像の変遷〉・・といった具合に図版サンプルによる比較表がある。
たとえば見開き4ページにレイアウトされた〈裸体のヴィーナス〉表は、「ヴィレンドルフのヴィーナス」(前30万年)から「ミロのヴィーナス」(前2世紀)〜ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(1493)〜ブロンズィーノ「ヴィーナスの寓意」(1545)〜ルーベンス「アフロディーテとしてのエレーネ・フルマン」(1630)〜ゴヤ「裸のマハ」(1792)〜マネ「オランピア」(1863)〜クリムト「サロメ」(1909)〜ブリジット・バルドーのスチール写真(1965)など30のマスト・アイテムが並ぶ。
「本書で、われわれは躍起になってそれ(美の普遍性)を探し出そうとはしない。むしろわれわれは差異に光をあてよう。ー 美は決して絶対的でも不変でもなく、時代や国によって異なる様相を帯びるという原則からスタートする。そして、これは物理的な美のみでなく、神や聖人やイデアの美にも適用される・・・」
「美の歴史」という訳書のタイトルからすると、美術の通史的なイコノロジーかと思うが、そこは当代きっての記号学のマエストロにして、中世を舞台とするベストセラー傑作ミステリー「薔薇の名前」の作者、ウンベルト・エーコの編著とすれば、一筋縄ではいかない謎かけと謎ときの〈美の迷宮〉が仕組まれていると踏んだほうがいい。
ギリシアの理想美、中世の光と色彩、怪物の美、牧場の少女から天使のような貴婦人へ、優美から不安の美、崇高・・・各章にちりばめられた彩色あざやかな作品図版のカット・アップも魅惑的だが、重要なのは、同時代や異なる時代に書かれた美を語ったテキストが豊富に収録されている点である。
「画家や彫刻家が作り出したイメージが一定の美の模範として賞賛されているらしい一方で、同時代の文学が別のものを賞賛している様子をお見せしよう。あるギリシアの叙情詩人がうたった女性の優美の型が後代の絵画や彫刻によってようやく実現される、ということもありうる。次の千年紀の火星人が、突然ピカソの絵や同時代の恋愛小説中の美女の描写に感じるかもしれない驚愕の念を考えてみるだけでよい」
ここで言う「火星人」とは、いまや私たち現代人と近世や中世の人びととの距離のたとえでもあるのだろう。
「この火星人には二つの美の概念の関係がどのようなものか、わからないだろう。だからこそわれわれは、たまには努力しなければならないのだ。美のさまざまに異なるモデルが同時代にどうして共存するのか、さまざまな時代を通じて、これらのモデルがお互いにどのように関係するのか考えなければ」
ホメロスやプラトン、ダンテ、レオナルド、アルベルティ、エドマンド・バーク、ゲーテ、カント、サド、ワイルド、ボードレールからロラン・バルトなどの哲学や文学のテキストに限らず、引用は、中世の吟遊詩人の歌詞やファシズム期の議会報などにもわたって、多声な美への呼びかけが集められている。
「ギリシア人は、実は、世界にその飾りから、多様な要素や星々の美しさから、名を与えた。実際、彼らは、世界をコスモスと呼んだが、それは飾りという意味なのである。本当に、われわれの肉眼で見て、世界以上に美しいものはない」 (セビリアのイシドルス「語源論」7世紀)
「美術は、自然のうちで醜く不愉快になるであろうさまざまな物を美しく描くという点で、優越性を示している。復讐、疫病、戦禍などは、痛ましい災禍として、きわめて美しく描かれることができるのであり、それどころか絵画に表象されることすらできる。ただある種の醜さだけは・・・」(カント「判断力批判」1790)
「薔薇の名前」の舞台が中世・北イタリアの僧院であったように、本来がトマス・アクィナスや中世美学の研究者だったエーコなので、なかでも中世に関する作品と文献、イタリアのマニエリスム、ロマン主義時代の絵画などは、本書の際だった個性となっている。
「薔薇の名前」の表紙を飾った「ベアトゥス黙示録写本」(8世紀)をはじめとして、ランブール兄弟の「ペリー公のためのいとも豪華なる時祷書」(1410)や修道士たちの遺文を通して語られる色彩と光の形而上学は、「暗黒の中世」の通説をうち破る。また黙示録やマルコ・ポーロの「東方見聞録」に表された怪物や中世の象徴体系による美の対位としての〈醜怪〉の分析があったり、トルバドゥール(南フランスの吟遊詩人)や宮廷詩人たちが詠んだ歌謡に聖愛と俗愛における美の規範を読んだりもする。エーコがひろげるイタリア人らしい官能ゆたかなタペストリーは、美という文化遺伝子の織り糸を縦横にたぐりよせて、濃密な芳香とともに、読者を〈美の迷宮〉の奥の間へと連れていってくれる。
原書は、CD-R版の「美ー西洋世界のある概念史」を書籍化したUMBERTO ECO「STORIA
DELLA BELLEZZA」(Bompiani 2004)である。たしかに比較表などは、CD-R向きだが、質量から見ても、この素早い翻訳は快挙といえるだろう。
東洋書林/439ページ/本体8000円+税
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