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本<鷹見明彦>


「アーモリー・ショウ物語」
ミルトン・W・ブラウン(著)、木村要一(訳)
美術出版社

兵器庫ではじまったモダンアートの祭典

 万博の経済効果はともかく、現在の時代感覚からすると、ひとつの展覧会が100年も語り継がれるような影響力と伝説を生むといった実感は持ちにくいが、これは、いまからちょうど100年前にアメリカで開かれモダンアートの伝説となったある歴史的な展覧会の物語である。

 通称《ARMORY SHOW》ー「国際モダンアート展」は、1913年ニューヨークのアメリカ合衆国陸軍州兵第69連隊の兵器庫(アーモリー)を会場に、当時のヨーロッパとアメリカのモダンアート作品1200点以上をあつめて開かれたアメリカ史上初のモダンアートの国際展だった。
 いまではその展覧会名は、現代美術の歴史のはじめのほうのページに、モダンアートの中心が、ヨーロッパから大西洋をこえてアメリカに移るきっかけとなったエポック・メイキングな出来事として、やがてふたつの世界大戦を経たアメリカで現代美術のゴッド・ファーザーとなるデュシャンの出品作『階段を下りる裸体 No.2』(1912)が巻き起こしたスキャンダルとともに記されている。

 長年、コロンビア大学で美術史を教えた著者の《アーモリー・ショウ》研究は、アメリカ美術史の主要文献となった『アーモリー・ショウから大恐慌までのアメリカ絵画』(1955)にはじまり、本書は、その50周年記念展(1963)に際して出版された原書の改訂版(1988)である。

 《アーモリー・ショウ》について、まず特記されるべきことは、その時代と場所である。1913年といえば、第一次世界大戦(1914ー17)の直前、美術館ではなくアメリカ軍の兵器庫という会場には、何よりもこの展覧会の性格とその後の時代の先がけとなるモダンアートの運命が現れている。
 美術作品の展示場や作家のスタジオとして、倉庫などが一般的に利用されるようになったのは、60年代以降ニューヨークのソーホー地区などをはじめとして、いまではめずらしいことではなくなったが、100年前といえばいかにも型破り。しかもそれが今日のように施設の再利用などではなくて、造りたての軍事施設だったというのには、第一次大戦には参戦せずに軍需景気によって、アメリカが大国へと飛躍を遂げる時代が反映している。

 100年前の「モダンアート」といえば、20世紀初めに印象派への評価がヨーロッパで高まってからまだ間もない時代。絵画でいえば、マティスなどのフォーヴィスムやピカソ、レジェなどのキュビスムが前衛であり、さらに戦争の足音と不安のなかに生まれた表現主義や未来派、ダダイズムなどが最先端だった。
 アメリカでは、ヨーロッパ伝来のアカデミズムが主流で、セザンヌ以降の新しい美術の紹介は、ニューヨークでも、写真家スティーグリッツのギャラリー《291》などごく一部で眼にできるぐらいだった。それだけに《アーモリー・ショウ》が与えた衝撃は、絶大だった。規模的にみても、もともと文化的には、本家へのコンプレックスが大きい新興大国が、旧大陸の戦乱に乗じて仕組んだ国家的な文化戦略と思うの普通だが、それが反アカデミズムの新興組織、わずか25名の《アメリカ画家・彫刻家協会》という有志によって、公的な予算によらずに成し遂げられてしまったところに、若かったアメリカと時代の勢いが感じられる。

 最初に構想されていたのは、アメリカの作家のみの展覧会だったが、ヨーロッパへの視察時にドイツで開催されていた「ケルン・ゾンダーブント美術展」(1912)やモダニズムが成熟期に達していたパリの状況に直接刺激されて、空前の国際展が実現されていった。

 《アーモリー・ショウ》は、全体の3分の1がヨーロッパ部門で、主要なフランスの近代美術では、アングル、ドラクロア、クールべ、コロー、ドーミエなどから印象派と後期印象派、ロートレック、ルドン、ナビ派、ルソーそしてフォーヴィスム、キュビスム、デュシャン3兄弟、ピカビア、ドローネー、彫刻では、ロダン、ブールデル、マイヨール、ブランクーシ(マティス、ピカソも)など。ほかにイギリス、アイルランドやドイツ・コーナーなどもあったが、フランスが圧倒的で、たとえばカンディンスキーはあっても表現主義はほとんどなかったドイツでは、レームブルックの彫刻が注目された。アメリカ部門には、モダニズムの先駆としてホイッスラー、A.ピンカム・ライダー、そしてホーマー、イーキンズや当時の改革派が結集した《ジ・エイト》、若きリアリストたち、スティーグリッツ周辺の新進作家や応募で選ばれた作家のなかには、若きエドワード・ホッパーの名もあった。

 3週間の会期中の入場者数は、8万7千人ほど。開場時間は、午前10時から午後10時まで。入場料は、1ドルだった。想像されるように新聞や雑誌には、この「騒動」とモダンアートの作品をめぐってのスキャンダラスな記事や論評があふれたが、そうした反響もふくめて、有志が、アカデミックな美術界に旋風を送り込んだ快挙への共感も多くあって、展覧会は事業的にみても成功といえた。

 「わが国民に、こういう方法でヨーロッパの美術の力、無視できない力を見せる必要があるという点では、出品者たちの仕事はきわめて妥当である。だからと言って、ここに展示されているヨーロッパの過激派に対する彼らの考え方を私がうけいれるということを意味するものではない」
   ー第27代合衆国大統領テディ・ルーズヴェルト「門外漢が見た美術展」
「この展覧会を要約すれば、わが国の画家の成果に関しては、鈍感に自己満足しているわけにはいかない」ー『アメリカン紙』
「アメリカの大衆はこれ以降、マンガのコラムで先駆者を裁くこともなくなるだろう」ー『イヴニング・ポスト紙』
「アメリカの美術は、もはや後戻りはしない」ー『グローブ紙』

 はじめてアメリカで本格的に展示されたセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、誹謗の中心となったデュシャンの裸体とキュビスムはともかく、マティスも批評家の攻撃の的になった。特別にたくさん展示されたルドン、レームブルックの彫刻は、意外に好評だった。スキャンダルまがいの反応であっても、クローズアップされたデュシャン3兄弟、ジャック・ヴイヨンと彫刻家レイモン、マルセル、それにピカビアは、アメリカでの知名度を高めて、とくに後者2人は、まもなく戦争とともに訪れる渡米へのチャンスをよい形で先取りすることができた。

 《アーモリー・ショウ》がアメリカにもたらした大きな成果としては、美術館やコレクターへのモダンアートの普及のきっかけを作ったことがあげられる。《アーモリー・ショウ》には、今日でいうアート・フェア的な側面もあって、展示作品の多くは、即売された。アメリカの美術館が最初に買ったセザンヌは、このときのメトロポリタン美術館の購入であり、のちにフィラデルフィア美術館のコレクションの中心となるデュシャンの初期作も、このときのもので、全体で170点あまりの作品が売買された。本書に付されたその後の所蔵先が記された出品目録を読むだけでも、モダンアートの生きた資料として多くのことが読み取れる。

 《アーモリー・ショウ》はその名のとおり、ニューヨークの出来事だった印象がつよいのだが、その後シカゴとボストンへ巡回した。シカゴ展は、シカゴ美術館で開催されたものの、どちらも会期は短く、土地柄もあってニューヨークのような成果は得られなかった。

 ー 大衆は、新しいアートを奇行と見た。それは新しいアーティストへの救済だったのだ。長く受け入れられてきた美術の規範は、蝕(むしば)まれたのだった。 
  ー ピューリタニズム、田舎根性、愛国主義のいずれによるにせよ、当時のアメリカにはヨーロッパ文化は堕落しているという根強い考え方があったし、それはいまでもアメリカではごく当然の考え方だし、アメリカは若く、ヨーロッパは年老いているという比喩は、いまでも続く頑迷な決まり文句なのだ。
いまはかなり少数派になったと思いたいが、当時の多くのアメリカ人は、急進的な芸術運動を、単なる頽廃ではなく、男らしいというアメリカの健全さにとって危険極まりないものだと考えていた。

 兵器庫ではじまったモダンアートの祭典・・・。20世紀とともにあったモダニズムの伝導そして100年後の大国、近年のアメリカの膨張とそのドリームの失墜を考えるにつけても、まさにこれは現在と未来のために読まれるべき〈記録〉なのである。

美術出版社/391ページ/本体3800円+税

   
(2006/3/31update)
     
   
         
 
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