「黄金比はすべてを美しくするか?」
マリオ・リヴィオ(著)、斉藤隆央(訳)
早川書房
数学と美術の熱い関係
主演のトム・ハンクスとジャン・レノも来日して、原作も映画も空前のヒットとなりそうな「ダ・ヴィンチ・コード」。本当の〈主役〉のコード・ネームは、「黄金比」ー秘密結社や聖杯伝説をめぐるミステリーの鍵となるダ・ヴィンチの名画やノートの図像に秘められた暗号の名前である。
「最後の晩餐」や「モナ・リザ」に隠されたそのコードについてのナゾ解きは、映画の見せ場であり、それが2000年のキリスト教の「闇の歴史」とどうつながっているかはミステリー内のお話としても、無理数とそれが形づくる黄金比や幾何学形を造形の基本的なプロポーションとすることは、美の規範と宇宙の法則に通じた人間の英知として、古代から試みられてきた。「暗号」というよりも、ひとつの基本原理として。
著者は、NASAのハッブル宇宙望遠鏡のプロジェクト・リーダーを務めた宇宙物理学者だが、科学者としての知見と幅広い人文的教養を駆使して、古くはユークリッドやピタゴラスから現代のブラックホール理論やフラクタル理論におよぶ黄金比の活躍を、またバラの花びらやオウム貝の殻のらせん形、パルテノン神殿、ダ・ヴィンチやデューラーの名画、バッハのフーガ、ヴァイオリンの形体、株式相場の変動分析からハッブル宇宙望遠鏡で観測される大銀河のうず巻きなど、世界に遍在するそのコードの環が語られる。
こうした目録づくりは、サイエンス・ライターの十八番(おはこ)でもあり、類書も多くある。とくにフラクタル理論の流行後は、点数も増えたが、人文的なレベルで一般論を越えるものとなると少ない。なかには本書でも触れられているダグラス・ホーフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のような傑作もあるが。また19世紀に流行ったジョン・テイラーなどの数字遊びによる疑似エジプト学からグラハム・ハンコックの「神々の指紋」などにいたる古代ミステリーがもたらした弊害も大きい。(本書は、)「美術史や自然、数学、哲学、さらには宗教といったテーマをとっつきやすく、しかも目の覚めるようなやり方でひとつに絡(から)み合わせている」ーダン・ブラウン(「ダ・ヴィンチ・コード」の著者)。
「数学に強くない者は、私の著作を読んではならない」とは、ダ・ヴィンチの「絵画論」の書き出しだが、ヴァザーリの「ルネサンス画人伝」にもあるようにピエロ・デラ・フランチェスカも、数学が得意で多くの数学書を著し、そのうちの3冊が現存していることは知られている。ピエロ・デラ・フランチェスカ、ダ・ヴィンチ、デューラーの作品と黄金比の役割が明かされているのはもちろんだが、彼らに影響を与えた同時代の数学者ルカ・パチョーリ(ナポリの美術館に有名な肖像画が遺されていて、その背後に描かれた弟子はデューラーという説がある)についても詳述されている。
ルネサンスの画家にとって、建築家がそうであるように数学の知識は必須だったといえるが、著者は、また一方でそれ以前のジョットやチマブエの作品やダ・ヴィンチの作品についても、黄金比や幾何学に関する通説を慎重に検討して、しりぞけるべき憶測はしりぞけている。
(ダ・ヴィンチ作の「聖ヒエロニムス」について)「黄金方形は『聖ヒエロニムス』をぴったり囲んでいる」と訴えるには、相当に虫のいい見方が必要なのだ。じっさい、その長方形の辺は体(とくに左側)や頭を収めきれず、腕が大きくはみ出している」
「数のトリック」による推論に対する著者の姿勢には、一貫した客観性があって、それはパルテノン神殿についても、エジプトの大ピラミッドをめぐるさまざまな迷信や通説に対しても必要な目配りが示されている。
フェルメールの室内画にくり返し描かれた床の黒白タイルのパターンやアルハンブラ宮殿のタイル模様、それにインスピレーションを得たエッシャーのグラフィック・パターンと現代宇宙物理学のホープ、ロジャー・ペンローズによる対称性のアイデアの関係や、フラクタルの例として、カスパー・フリードリッヒの「雪のなかの巨石墳墓」(ドレスデン近代絵画館蔵)に描かれた樹木の枝を語るところにも、著者の視野が感じられる。
キュビストたちの関心にはじまるモダンアートと黄金比については、グリスの絵画やリプシッツの彫刻、ピューリスムとル・コルビュジェの「モデュロール」(人体比による尺度)、イタリアの前衛運動ーアルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)の作家マリオ・メルツによるフィボナッチ数列のシリーズ、そしてモンドリアンの「黄金比疑惑」を晴らすなど、どれも科学者の趣味の域から踏み込んだ事例に引き込まれる。コルビュジェから直接「モデュロール」の説明を受けたアインシュタインは、建築家への手紙のなかで、「その比の尺度は、ひどいものをできにくくし、良いものをできやすくしてくれますね」と記しているという。
また序章に図版のあるダリの、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を参照して正十二面体を重ねて描いた傑作「最後の晩餐の秘蹟」(1955)は、今年巡回するダリ展でも公開される。
「神は数学者なのか?」と題された終章では、コンパスを持った神の姿を描いたウィリアム・ブレイクの銅版画「日の老いたる者」が登場する。
「数学は人間の思考と関係なく客観的な実在として存在する」というプラトン主義の世界観と「観測と合うものが自然選択によって残った」とする進化論モデルのふたつの立場が言及されて、両者をあわせる道が、光学の発展の歴史に照らして語られている。
早川書房/346ページ/本体2100円(税込) |