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本<鷹見明彦>


「わたしの名は紅」
オルハン・パムク(著)、和久井路子(訳)
藤原書店

歴史の交差点に生きた細密画師たちの物語

 時代は16世紀末、オスマン・トルコの都イスタンブールには、オスマン帝国が栄華の頂点をきわめたあとの斜陽の影が射していた。かつてはドナウ河までも攻め上り、アラビア半島や北アフリカ、地中海を制覇した無敵のトルコ軍は、1571年のレパント海戦でヴェネツィアとスペイン連合軍に敗北、ビザンチン帝国以来、東西の富と文化の粋(すい)を集めていたイスタンブールの都は政治経済が混乱し、キリスト教国に負けたのは他文化に寛大であったことが神の怒りをかったためだとするイスラム原理主義が市民のあいだに勢力を広げていた。

 「わたしの名は紅(あか)」の物語は、オスマン帝国末期の冬の9日間にスルタン(トルコの王)の王宮の工房で起こった細密画師の殺人事件を解くミステリーをすじに展開する(この設定やタイトルは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を思わせるところがある)。

 偶像崇拝がタブーとされたイスラム教圏では、西欧のような絵画は発展しなかったが、ペルシアの王宮を中心に装飾写本などを飾る細密画(ミニチュアール)が描かれた。その伝統は、オスマン・トルコやインドのムガール朝などへ伝わり、本家をしのぐ開花をとげた。16世紀末のイスタンブールでは、スルタンの命令で、目前にせまったイスラム暦千年を慶賀する祝賀本の製作が進められていた。工房の監督は、アラーの神を冒とくする危険を犯して、かつて訪れたヴェネツィアで見た遠近法や肖像画の技法をひそかにその絵のなかに潜ませようとするのだが・・。

 「細密画とはアラーの神が世界をどうご覧になるかを絵の中で探し求めることである。そしてその無比なる光景は、厳しい研鑽生活の末に、細密画師が精根尽きて到達する盲目の後に思い出される。つまり、アラーの神がこの世をどうご覧になられるかは、盲目の細密画師の記憶によってわかるのだ」

 「心の中に深くたまっていた憤りの復讐を、ヨーロッパの真似をする本のために絵を描いて、果たしたのだ」
  「おまえは細密画師を識らない。その逆だ。子どものころ受けた殴打は、細密画師を師に死ぬまで深い愛で結びつける」

 細密画の伝統をめぐるいく多の伝説や秘密、イスラムの物語、西洋美術と東洋美術の比較、時代の様相や街の習俗が、色名や鳥、蝶などのあだ名を持つ細密画師たちとその家族、恋人、少年、野良犬、写本に描かれた一本の木、金貨などのそれぞれの独白によって、イスタンブールという歴史の交差点の街をめぐる重奏となって語られていく。

 「7歳から22歳まで、わたし自身も画家になりたいと思っていました。・・この小説は、単にオスマン・トルコやイランの細密画師たちの苦悩を書いている本としてだけでなく、西洋文明の外にあるが、しかしその力の影響下にある世界で、西洋以外のどこかで生きている創造的な芸術家たちの生と苦悩の物語として読まれるべきものです」ー「著者まえがき」より
 
  著者オルハン・パムク(1952生)には、2006年度のノーベル文学賞が授与され、トルコ初の受賞者となった。パムクは、生まれ育ったイスタンブールで創作を続けて、トルコでは知識人と学生にもっとも人気の高い作家として知られるが、代表作である本書は、1998年発表と同時にヨーロッパ各国の文学賞を受賞しベストセラーになった。それは細密画師たちの物語とミステリーのうちに湾岸戦争から2001年を経て東西の衝突へと急迫する時代情勢への見通しが大きなスケールで巧緻(こうち)に投影されているからだろう。

 スイスの新聞のインタビューで、20世紀初めに起きたオスマン・トルコによるアルメニア人大量虐殺(この事件については、本サイトCINEMAのバックナンバー「アララトの聖母」に関連記事あり)を認める発言を行ったことで、2005年トルコ政府は、パムクを国家侮辱罪で起訴した。その後、フランス議会がこの虐殺を否定する者を処罰する法案を可決した同じ日にノーベル文学賞が発表された。フランスの議決には、同国の40万人をこえるアルメニア系移民の声が影響しているが、トルコのEU加盟と人権問題の綱引きを背景にパムクの発言と文学は、一躍脚光を浴びることになった。トルコ政府に対峙しながらフランスの決議について、作家は「自由主義の思考を支持するフランスの伝統に反する」と批判的コメントを表明している。
 
  近年の経済や金融の情勢はさておき、長い歴史と時間のなかでイスタンブールは、地勢的にも東西文化の交差点に位置する街であった。その地から世界への言葉を創造する作家は、東西の人間性が互いに調和できるのを識ることがあったなら、物語のなかの細密画師たちも殺し合うことはなかった・・と語っている。
  かつての細密画師たちの故郷ペルシアーイラクもイランも、シナイ半島も、戦禍と原理主義に覆われて、世界中に拡散したテロが底なしの対立と流血を再生産するようになった時代のさなかに生まれたその物語には、永い道程をもった人間のたましいへの問いと希いが熱く含まれている。

藤原書店/628ページ/税込価格3,885円

   
(2007/1/5update)
     
   
         
 
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