「イリヤ・カバコフ自伝」
イリヤ・カバコフ(著)、鴻英良(訳)
みすず書房
涯てのない檻のなかで、生きのびるために
カバコフは、その名がしめすようにウクライナ生まれ(1933)のロシア人アーティスト。1980年代以降にペレストロイカとともに知られるようになったロシアの現代美術を代表する作家であり、現在は、ニューヨークを拠点に共同制作者でもある夫人エミリアとともに国際的に活躍している。その名を一躍知らしめたモスクワのアパートから宇宙に飛び出した男の屋根裏部屋を仮構した作品やモスクワの公衆トイレや台所をモチーフにした作品、ソビエト時代の絵本や公文書、アルバム形式による作品など、その表現はユーモアと物語性に旺盛な批判精神を含んで、人気が高い。むかしチベットに存在したというユートピアの都市を白い木造の船にのせた今年のヴェネチア・ビエンナーレでの大作「寛容の船」(2007)など、おもな国際展や美術館での個展、企画展も多く、いまや現代美術を代表する巨匠の一人である。欧米での活動はこの20年内だが、もっとも成功した旧共産圏の現代美術家といえる。日本での展覧会も数多く、水戸芸術館、森美術館、神奈川県立美術館での個展や企画展、トリエンナーレへの参加などでもたびたび来日している。
ひとつの成功物語といえるが、それは冷戦の終わりまでの長い歴史のなかで旧東側、共産圏のアーティストたちが運命として過ごした時間と人生をくぐり抜けたのちのキャリアである。
本書のサブ・タイトルは、「60年代ー70年代、非公式の芸術」。共産主義、社会主義体制の国家のもとで、制約され弾圧された芸術の歴史は、ペレストロイカ以前にも、ロシア・アヴァンギャルドの研究や亡命芸術家の証言、回想などによって部分的には知られてはきたが、ソビエトの崩壊と東欧、中国などの開放と資本化にともなう転換から、長いあいだ閉ざされていたその歴史のベールの内側の情報公開がしだいに進みつつある(本サイトBOOKのバックナンバー『全体主義芸術』など)。1990年代以降は、ロシアの現代美術を紹介する展覧会も流行のように企画されてきた。そのなかにあって、本書が画期的なのは、従来研究や展覧会の紹介が多かったロシア・アヴァンギャルドや構成主義、社会主義リアリズムとはちがって、これまでほとんど知られることがなかった60年代以降のソビエト内の現代美術家たちの生態が、そのもっともすぐれた作家自身の証言によって内部から語られていることである。
共産主義体制下では、職業のすべてが公務員であるように芸術家も政府に公認された「公式の芸術」として社会に存在する。体制に公認されない芸術は、社会的に存在を許されないばかりか、反体制として抹殺される。カバコフは、ソビエトにあっては1950年代から30年以上にわたって、絵本や児童書の挿絵画家であり、子供ならだれもが知っている絵本を描きつづけた。後に現代美術作家としてソビエト〜ロシア外の世界で知られるようになるカバコフの作品には、そうしたテキストとイメージの関係を挟んだ、挿絵画家であった経験が生かされている。
ソビエト内で自分の表現の自由を意志する芸術家たちは、「公式」の仕事の影で、「非公式の芸術」を作りつづけるしかなった。公認された芸術家たちには、国からそれにふさわしい報酬やアトリエが持てる住居が与えられたのに対して、非公認の芸術家たちは、地下室や屋根裏の劣悪な環境で逮捕の危険を伴いながら密造酒を作るように、ひそかに自分たちが信じる芸術を探求しつづけた。カバコフの手記には、たとえではない「地下芸術」の実態が、仲間や知られることなく消えていった芸術家たちの信念と作品のことが、時代状況とともに詳細に書き留められている。読みはじめると、作品の図版(カバコフ以外の)がないことにフラストレーションをおぼえるが、それを我慢して読みつづけていくと、ドストエフスキーやカフカの小説か、あるいはSFを読んでいるような気がしてくる。 それは実在した芸術家たちの姿のはずだが、カバコフの作品が「架空の芸術家の生涯を語る」という形式を特徴としてきたのに相似して、その作品のシリーズの登場人物たちのようにも思える。べつな言い方をするなら、それは歴史の証言であると同時にカバコフの芸術がなぜそうした形式を持つようになったかを明してもいる。
この自伝は、1982年、1986年というソビエトからロシアへの変動が進行した時代のなかで、回想的手記として書かれた。モスクワ郊外の空き地で非公式の芸術家たちが開いた野外展をブルトーザーがつぶして当時話題を集めた1974年の「ブルトーザー事件」の真相や、タルコフスキーなどを亡命へと追いやったペレストロイカ前の時期の絶望的な状況など、内側にいた者が語ることができる歴史も重要だが、共産主義のユートピアの影に存在した60年代〜70年代の〈地下芸術の夢〉が、人間が作りだした圧迫の檻のなかでディストピアと妄想の塵と化していく様相、それに抗する精神の記録は、ひとつの巨大な檻が壊れた後も、人間をとらえるこの世界という涯(は)てしない檻を生きのびる困難と生存方法を暗示している。
イリア・カバコフ『世界図鑑』絵本と原画展(2007年9月〜2008年9月 神奈川県立美術館 葉山、広島市現代美術館、世田谷美術館ほかへ巡回)
みすず書房/A5変型判/400頁/5,670円(本体5,400円) |