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本<鷹見明彦>


「わが父 ルノワール」
ジャン・ルノワール(著)、粟津則雄(訳)
みすず書房

ルノワール+ルノワール=・・・?

 頬杖をつきながら夢中で卓上の紙に絵を描いている少年(本書の表紙)ー。ピエール・オーギュスト・ルノワール作「絵を描く少年」(1901)の赤毛の少年は、ルノワールの次男ジャンである。ルノワールには3人の息子たちがいた。絵が描かれた1901年にジャンは7歳、父ルノワールは60歳だった。それから60年後、少年は父親の年齢をこえる頃になって、この本を書いた。肉親による芸術家の伝記は、画家に限ってもピカソ、マティス、モディリアーニ、クレーなど、息子や娘が書いた回想録の例は少なくないが、この「ルノワールによるルノワール」には、とりわけゆたかな内容が含まれている。成長した「絵を描く少年」のジャンは、「ピクニック」「大いなる幻影」「素晴らしき放浪者」など映画史上の名作を撮って、フランスを代表する映画監督になった。つまりこの伝記は、フランスを代表する印象派の巨匠について、その実子でもある、印象派の次世代から始まった映画の巨匠がつづったという事実がまず、稀(まれ)にみる話なのである。

 はじまりは、ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841〜1919)の生まれとルノワール家の出自から。画家の父(ジャンの祖父)はフランス中部の古都リモージュの木靴商だったが、4歳の時にパリに引っ越したので、画家は自身を「パリっ子」だと思っていた。乗り合い馬車でのパリへの旅、一家は貴族たちが去ったあとに裕福ではない市民たちが住み着いていたルーヴル近くの街に住んだ。ルーヴルの庭で子供たちが騒いで遊んでいると、チュイルリー宮殿の窓が開いてフランス王妃の子孫がボンボンを配って大人しくさせた。
パリの人口は120万。まだ明かりは石油ランプ、水は運搬人によって運ばれていた。煙突掃除をするのは小柄なサヴォア人たちだった。・・・それから約70年後、画家の生涯の終わりには、田舎の人口は減って都会に押しよせた人波は、パリに場末をつくり出していた。罵声を浴びた印象派の登場から半世紀、レジオン・ドヌール勲章の巨匠となった画家の家には、自家用車と電話、蓄音機、映写機などがあったが、人類は史上はじめての近代兵器による戦争を終えていた。
「時々、父と私は、手の文明から頭脳の文明への移行を象徴する時期がいつだったのかをはっきりさせようとしたものだった・・・」

 この伝記が出版されたのは、1960年代の初め、ジャン・ルノワールが老年になってからだが、回想は、1915年第一次大戦に従軍して脚を負傷したジャンがパリに戻って、父ルノワールとじっくり語り合った記憶にもとづいている。晩年を苦しめたリューマチのために、画家は車椅子で生活するようになっていた。画家が生きた時代についての記述が鮮明なのは、親子の間にそうした親密な語らいがあって、さらに「私は彼の絵に烈しい賛嘆の念を抱いていた」息子の、また熟年になってできたその息子への父親の深い愛情の双方があったからである。

 「1881年の夏、彼はいよいよとりかかろうと決心した。『昼食の絵(代表作『舟遊びの人々の昼食』)にかかるつもりだ』と彼はバルビエ(軍隊仲間だった男爵)に言い、バルビエはすぐにルノワールの親しい仲間たちを集めた。・・・うしろの方にいる山高帽の人物はたしかロート(通信社社員)だし、リヴィエール(財務省の役人)と思われる友人の方に身をかがめているのはレストランゲス(内務省の役人)だ。手すりに肘(ひじ)をついている若い女は、アルフォンシーヌ・フールネーズ、彼女のレストランの常連たちに倣(なら)って言えば、小町娘のアルフォンシーヌだ。彼女は1935年に92歳で死んだが、ロシア公債に有り金をはたいていたためにまったくの破産状態だった」
印象派を生みだしていく近代の転換期の、まさに渦中にいた主役が明かす美術史の現場は、才能を競ったほかの画家たちやその時をともにした人々の話など、得がたい証言の森だ。

 「ルノワールは、年をとり知識が増すにつれて、パレットにおく色を単純にするようになった。こういう傾向が始まったのは、おそらくナポリでポンペイの絵画を前にしたときからだろう。或る日、彼は私にこんなことを言った。『イタリアで困るのは、あまりに美しすぎることだよ。眺めていてあんなに楽しいのに、どうして描いたりするんだろうな?』」
よく父の絵のモデルになった子供のころから、後年にはリューマチで筆を持つこともままならない晩年の制作を助けた著者の経験は、作風の変化にともなってルノワールのパレットに置かれた色の変化をリストアップすることも可能にしている。時代の風俗や個々の人間の姿、モンマルトルやパリ近郊、アトリエがあったルノワール夫人の故郷エソワ、晩年を暮らした南仏カーニュ。
画家とその作品を育んだ土地や生活についての細やかな言及は、まさにジャン・ルノワールの映画が織りなす光彩と人間賛歌に重なる。パリと地方の暮らし、家庭、乳母やモデルたち、食事などの話は、その時代の生活誌にもなっている。

 「エスタックの村長が1895年に父とセザンヌに彼独特のブイヤベースを伝授してくれた。これは昔ながらの作りかたで、まずオリーヴ油で軽くいためた小さな岩魚(いわな)と玉ねぎとトマトを入れる。それから熱湯と、にんにくをうんと加える。にんにくは決していためてはいけない。それから香料植物を入れる。大きな魚や、えびやかには、この『地』が煮えてから入れる。それにカサゴがいくらか必要だ。いちばん最後にサフランを入れる」

 「人間でも、風景でも、題材でも、少しも面白いところがないようなものはないね。・・・その面白さは時として奥深くかくされているけれども。誰か或る画家が、そのかくされた宝を発見すると、すぐにほかの連中が、その美しさをわめき立てるようになるんだ。コローじいさんは、他の川と変わったところもないあのロワン河の岸辺の美しさに、われわれの眼を開いてくれたのさ。きっと日本の風景だって、他の風景より(特別には)美しくはないんだよ。ただ、日本の画家たち(浮世絵師たち)は、そのなかにかくれた宝を発見することが出来たんだ」
こうした画家のことばは、本の扉に記されたことばに響き合っている。「読者ーあなたがわれわれに示しておられるのはルノワールその人ではない。ルノワールについてのあなたご自身の考えです。著者ーもちろんそうです。歴史とは本質的に主観的なジャンルです」

本書は、「ルノワール+ルノワール」展(Bunkamura ザ・ミュージアム 〔東京・渋谷〕2008年2月2日ー5月6日)の開催に際して、再刊された。
2005年にパリのシネマテーク・フランセーズの新館オープンの記念に同館で開催されて反響をよんだ企画展で、日本展は、オルセー美術館の監修によって再編成された。全体を「家族の肖像」「モデル」「自然」「娯楽と社会生活」に分けて、ルノワールの絵画約50点それぞれに関連するジャン・ルノワールの映画約15作品のワンシーンがピックアップし絵と映像を並べてビデオ上映された。展覧会のコーナーで映画やビデオが観られることはあっても、こうした展示は画期的である。

 「陽光のなかの裸婦」(1875)と映画「草の上の昼食」の水浴シーン、「ぶらんこ」(1876)と映画「ピクニック」のシルヴィア・バタイユのブランコ乗り、「田舎のダンス」(1883)と映画「恋多き女」のお祭り騒ぎのシーンのほか、画家がアルジェリアの植民地を旅したときに描いた「バナナ畑」(1881)とインドのガンジス河で撮った最初のカラー映画「河」などが対比された。 
ジャン・ルノワールの「すばらしき放浪者」「ピクニック」「草の上の昼食」の舞台であるかつてのセーヌ河畔の風光は、まさに父ルノワールが描いた印象派絵画のフィルム版ともいえる。ジャン・ルノワールの映画を観てその父の絵を思い返すなら、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」「桟敷席(さじきせき)」「舟遊びの人々の昼食」といった画家の代表作には、来るべき映像の時代を引き寄せるように人生というフィルムのワンシーンを生け獲ったモダンなセンスが、光って見える。

 この本を読んでいたらジャン・ルノワールの親友の写真家ブレッソンの本(当サイトBOOKのバックナンバー、ブレッソン『こころの眼』参照のこと)に、若い頃、ヴィスコンティとともにジャンの映画「ピクニック」の助監督に雇われてその別荘に合宿に行ったら、そこに以前掛かっていたはずの父親の絵がだんだんなくなっていて、映画作りの資金源を知った話があったことが憶い出された。

みすず書房/四六判/456頁/4,410円(本体4,200円)

   
(2008/5/2 update)
     
   
         
 
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