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本<伊藤憲夫[美術ジャーナリスト]>

「『人間と物質』展の射程―日本初の本格的な国際展」

「『人間と物質』展の射程―日本初の本格的な国際展」
中原佑介美術批評選集[第5巻] 現代企画室+BankART

もっとも輝いていた東京ビエンナーレʼ70「人間と物質」展

 旧東京都美術館の展示室には色彩が見られなかった。そして、およそ美術とは無関係と思われてきた石、針金、砂、炭、灰、鉛、鉄板、ビニールパイプ、ガラスなどが展覧会場を唐突に占領している。これらは美術作品として造形されたり構成されることなく、無造作に置かれたり、積み上げたものがほとんどだった。国際展に特有の祝祭的な華やかさはまったくなく、取りつく島もないような素っ気ない景観に観衆が呆然と立ちつくしている場面も見られた。展覧会という通念は打ち捨てられ、薄暗くがらんとした空間は静寂に覆われている。しかし、ただ何か新しいものの始まりを予感させた。

「人間と物質 Between Man and Matter」展は「第10回日本国際美術展 東京ビエンナーレʼ 70」(1970年5月10日〜30日)の別称であり、日本国際美術展はヴェネツィアやサンパウロのビエンナーレにならい、総合的な国際美術展をめざして1952年に毎日新聞社によって創設された。第10回展では、従来の国別参加制や授賞制度を廃して新たに展覧会の企画構成を一人の企画者に一任する方式をとった。美術評論家・中原佑介がコミッショナーとなり、国内外から40名(海外27名+日本13名)のアーティストを招いた。アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートなど同時代の先端的な美術を結集した展覧会として画期的なものであった。しかし、従来の作品展示とはまったく異なる展覧会形式には賛否両論があり、また興行的には赤字となって1972年は休催となった。ちなみに1970年は、あの空前絶後の6,400万人を動員した大イヴェント「日本万国博覧会」(3月15日〜9月13日)が大阪の千里丘陵で開催されていた。

 布は隠蔽するものではなく、逆に視覚を遮ることで見えないものを顕在化させる、というクリストは彫塑室の床全体1,240㎡を塗装用の白い布(3×4m)175枚で覆った。カール・アンドレは東京芸大の正門近くに錆びて捨てられていた細い鉄の棒を入手して床に散在させる。リチャード・セラは上野公園の植え込みにヒマラヤ杉を一本移植した(現在もあるらしいが周囲に紛れて判別できない)。また、L型鋼鉄を円形に曲げてつくった直径約3mの輪を地面に埋設した(現在は多摩美八王子キャンパスに設置)。ソル・ルウィットは美術館壁面の穴あきボードの65,000個の穴に紙を丸めて差し込んだが、指示書をバイト学生に渡すと彼はアメリカに帰ってしまい完成作品を見ることはなかった。ダニエル・ビュランは彼のトレードマークとなる8.7cmのストライプを美術館の内外にポスターのように貼り付けていった。それは毎日新聞社の社屋や地下鉄銀座線の柱にまでおよび、美術館から日常の空間へ飛び出していった。アーティストらは皆若く、ジュゼッペ・ペノーネが23歳で最年少、平均年齢は31.9歳だった。

 「人間と物質」展に先行する展覧会として、ハラルド・ゼーマンによるベルン・クンストハレの「態度が形になるとき、作品―コンセプト―プロセス―状況―情報」展、アムステルダム市立美術館の「丸い穴の中の四角い杭」展、ホイットニー美術館(ニューヨーク)の「反イリュージョン―手続き/材料」展がいずれも前年の1969年に開催されている。欧米のアートシーンはこの時期に大きな変革期を迎えていた。ミニマル・アート以後に登場した新たな動向には、1968年のパリ五月革命に端を発する反体制運動が色濃く反映し、急速に拡大しはじめたアート・マーケットへの反発、完成したものより創造行為の過程を重要視する姿勢(プロセス・アート)、美術館や画廊から飛び出して自然や日常空間への侵出(オフ・ギャラリー)などの傾向が見られるようになった。これら三つの展覧会の参加アーティストを総合するとほぼ「人間と物質」展の参加者と重なっている。

 この「人間と物質」展で、中原佑介は完成作品をそのまま展示するのではなく現場で制作する「臨場主義」を提起した。三つの展覧会でも同様な傾向が見られ、後年のサイト・スペシフィック(特定の場所において作品が成立する)の先駆的な例になった。また1960年代末から活動をはじめていた〈もの派〉のアーティストも数名参加し(関根伸夫はヴェネツィア・ビエンナーレ出展のため不参加)、彼らの問題意識を海外の最新動向と比較検証する場にもなった。つまり「人間と物質」展は、わが国で初めての本格的な国際展であったが、すでに欧米と肩を並べた展覧会、あるいは参加アーティストのその後の活躍を考慮すると、当時の国際レベルを超えたものであったかもしれない。今展がわが国の美術界において神話化されているのは以上のような理由によるものと思われる。

 本書は、「人間と物質」展以前に書かれた1960年代の評論とそれ以後のもののなかから「人間と物質」展に関連した15本を選出し編集したものである。当時の時代状況と現代美術の変遷を描写しながら明快に持論を展開していく中原佑介の文章は現在でも十分説得力を持っている。とくに「第三章 展覧会のあとで 」に収録された「物質から『空間』へ―読売アンデパンダン展以後」は、1949年より64年まで東京都美術館で開催された無審査自由出品制の展覧会「読売アンデパンダン」(読売新聞社主催)が中止に至る経過と「人間と物質」展とを関連させて言及した資料性の高い評論である。ただ巻頭に据えられた「第一章 人間と物質」は現在読むとやや簡素な印象は免れない。欧米現代美術の最新動向を紹介し、鳴り物入りの大規模国際展の型録としては「人間と物質の間」について大上段に構えた論文が必要ではなかったか。

 当時のジャーナリズムは今展について冷ややかであった。朝日新聞は「この新しい美術家たちが現実にたいして鋭い発言を投げかけようと意図しながら、あまりにも観念的な世界に自ら閉じこもり、観衆にむしろ背を向けた姿勢を示しているのではないか」など展覧会の趣旨と観衆とのあいだのギャップがあまりにも深いことを指摘している(5月21日夕刊、小川正隆記者)。また『美術手帖』(1970年10月号)は今展を特集し、藤枝晃雄、東野芳明が寄稿しているが「これがなぜ芸術か」という特集タイトルがついている。当時の美術状況では今展は過激で性急なものであった。しかし現在でもこのような実験的で極端な展覧会の集客性は高くはないだろう。むしろ観衆の受けとめ方の多様性に配慮した広報活動や演出が必要ではないだろうか。文化事業と銘打っても新聞社にとって国際展も営利事業の一つであり、東京都美術館は貸会場でしかない。公的資金を期待できない展覧会運営はリスクを増大させた。以後、この規模の国際展は開催されることはなく、2001年の「横浜トリエンナーレ」まで待たなければならなかった。

 

「『人間と物質』展の射程」中原佑介美術批評選集[第1回配本、第5巻](全12巻)/B5判変型ソフトカバー 本文212頁/2,520円(2,400円+税)/編集:中原佑介美術批評選集編集委員会
代表:北川フラム+池田修/発行:現代企画室+BankART出版/2011年8月22日初版発行

   
(2011/11/20 update)
     
   
         
 
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