「アンドレイ・ルブリョフ」
放浪のイコン画家の伝説と創造の道
1970年代の終わりの「惑星ソラリス」の日本公開から遺作となった「サクリファイス」(86)まで、冷戦の終局への激動をタルコフスキーの映画の封切りとともに過ごした時期があったと顧みると、時代の変化の早さに歳月の間隔がわからなくなる。ある世代にとって、黒澤やヌーヴェルバーグがそうであったように、しかも映画の黄金期がすでに遠い記憶になった時代からすると、旧ソビエトからのタルコフスキーの出現は、ひとつの奇跡を観るようだった。
ソビエト時代に製作された初期作「アンドレイ・ルブリョフ」を観たのは、「惑星ソラリス」や「鏡」を観た後だった。モノクロームによる3時間におよぶ長編第1作。タルコフスキーの映像には特別な催眠効果が含まれている。話のすじやシーンのつながりの記憶は曖昧(あいまい)でも、聖堂にひっかかった気球が空に上がって、大河の流れるロシアの大地がひろがったかと思ったら墜落するファースト・シーンから、夢うつつの世界に連れ去られた意識の変化は、いまもはっきり覚えている。
墜落した気球のシーンのあとには、川辺に横たわる裸馬のスローモーションがあって、その後、タタールの侵略と内乱におおわれた国土を往く巡回僧と放浪絵師たちの旅が延々とつづいた果てに、「最後の審判」を描き上げた修道院の破壊があり・・途方もなく永い時間、雪と黒土におおわれたロシアの大地をモノクロームの映像のなかにさまよった後、初めてカラーで映り出すラスト・シーンの描かれたイコンの世界に眼を覚ましながら、歴史の彼方に去った伝説の画家の無意識に憑依(ひょうい)して、ある時代を旅したような感覚が残っているのを感じた。
アンドレイ・ルブリョフは、15世紀はじめのロシアのイコン画家。ビザンチン帝国以降、ギリシア正教を信奉したロシアや東欧の教会では、多くのキリストやマリア、天使を描くイコンを中心とする美術が、西欧のロマネスクやルネサンスと平行して発展した。中世のロシアには、ギリシアから画家たちがやってきて、弟子とともに各地の寺院のイコンを描いた。やがてその画派のなかから、ギリシアやビザンチンともちがうロシアのイコンが描かれるようになった。個人名が伝わる作者として、ルブリョフは、ジョットやピエロ・デッラ=フランチェスカにも比肩するロシア最高のイコン画家だが、その伝記はほとんど不明といわれる。トレチャコフ美術館、ロシア美術館などで観られる代表作「聖三位一体」や「ウスペンスキー聖堂のイコノスタシス」などの諸作は、ロシア・イコンの至宝として知られている。
この映画は、タルコフスキーでは唯一、歴史上に実在した人物の伝記を描いた作品である。かつてのソビエト映画といえば、「戦争と平和」にしてもエイゼンシュタインの「イワン雷帝」にしても、歴史映画の長編が多かった。映画が社会主義体制下での国策プロパガンダであり、表現の自由が制限された状況にあっては、、作り手も、歴史上の人物や物語にみずからの思想を仮託した事情があった。文学や演劇も同様だが、これはたとえば、SFが旧ソビエトや東欧の社会主義圏で発展し(安部公房のSF的小説もソビエトに多くの読者がいた)、タルコフスキーが亡命以前にソビエト国内で製作できた長編映画のいずれもが、歴史(「ルブリョフ」)とSFを原作とする作品(「惑星ソラリス」、「ストーカー」)であったことにも明らかだろう。
まさに黙示録的な戦乱と破壊にみちた地上を、大地と民衆と心の奥に広がる
神への祈りと信仰をあらわすために歩む画家の姿は、検閲によって信条を表現する映画を撮ることが殉教そのものであったタルコフスキー自身の化身でもありえた。絶望の淵で、画家は、家族が皆殺しに遭いながら教会の鐘の鋳造を見事に成しとげる少年の姿に出会い、改心する。神の愛に応える創造への邁進を誓う・・。
ウラジミールのウスペンスキー聖堂に描かれた「最後の審判」のフレスコ壁画は、制作場面だけで映らない。つかの間の平穏のようにイコンの制作が進む白い教会の内外を、種子をのせた春の綿毛が飛ぶシーンの時の流れは、忘れがたい。・・最高傑作を遺しながら、画家の生涯はほとんど伝わっていない。それはタルコフスキーが、ルブリョフを選んだ理由でもある。
「惑星ソラリス」のブリューゲル、「ノスタルジア」のピエロ・デッラ=フランチェスカ、「鏡」や「サクリファイス」のダ・ヴィンチなど、タルコフスキー映画には、名画が変奏のテーマのようにして映される。画家を主人公とした「アンドレイ・ルブリョフ」は、例えではなく、映画というメディアによって描かれたロシアの〈イコン〉なのだろう。あるロシアの学者は、この作品について次のように興味ぶかいことを書いている。
ー タルコフスキーの芸術では、昔の巨匠たちの絵画は、映画の構造そのもののなかに加わっている。それだけではなく、たとえば「アンドレイ・ルブリョフ」では、ルブリョフのイコンが構成面だけでなく本質においても映画を完璧なものに仕上げているかのようである。イコンが生まれるまでのすべて、画家の生涯のあらゆる部分が、その芸術が生まれるのに必要であった。・・・
タルコフスキーの考え方に近かったのは、逆遠近法に関する論文において、フロレンスキー(20世紀前半のロシアを代表する思想家。「ロシアのダ・ヴィンチ」と呼ばれた)が示している見解、すなわちイコンにおける逆遠近法は、一定の世界的課題に仕えているというものである。
ヴャチェスラフ・イワーノフ「時間と事物」
「アンドレイ・ルブリョフ」は、1967年に製作されたが、歴史的な解釈をめぐって上映許可が下りず、ソビエトでは完成から5年後に公開された。妨害を潜って出品した69年カンヌ映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。
販売元:アイ・ヴィー・シー/時間:182分/4,725円(税込)
(2006/2/13 update)
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