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映画<鷹見明彦>

アララトの聖母

一枚の母子像に秘められた〈消された記憶〉の現在性

 アーシル・ゴーキー(1904ー1948)といえば、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなどとともにアメリカの抽象表現主義絵画を先駆した画家の一人として知られている。1920年にトルコから迫害を逃れてアメリカに渡ったアルメニア系移民(ゴーキーという名前は、画家自身によるアメリカでの改名)で、ニューヨークで抽象表現主義の創成期に活躍しながら、1948年に40代半ばで自殺を遂(と)げた。

 少年の自分と母を描いた「芸術と母親」(1934)は、ゴーキー独特のシュールな半抽象の画風にいたる以前の、ピカソの影響を受けた時期の具象画の傑作だが、正面を向いて座る民族衣装の母親像の両手が消されている。そこには、1915年、聖なるアララト山の麓(ふもと)で起こったトルコ軍によるアルメニア人大虐殺とともに抹殺された民族の記憶への悲しみがこめられているという・・・。

 映画は、一枚のゴーキーの絵を時の扉のようにして、今日のカナダとトルコ、そして失われた歴史の時間を行き来して展開する。
1934年ニューヨークのアトリエ。先にアメリカに渡った父に送るために故郷で撮った自分と母親の写真をもとに描いた絵の、母の手をゴーキーは塗りつぶす。トルコ東部に強制移住させられたアルメニア人たちが、トルコ軍に囲まれて虐殺された少年時代・・母は別れの最後に、「生き延びたら、この悲劇を語り伝えるように」と少年に言った。

 現在のカナダ。トロントの大学で美術史を教えるアルメニア系移民の女性(アーシニー・カンシャン)は、ゴーキーの絵を研究し、展覧会を企画する。1915年の虐殺を描く映画を撮ろうとしていたアルメニア人の映画監督(シャルル・アズナブール)が、彼女の講演を聴いて、映画の監修を依頼する。美術史の教授のひとり息子の青年は、映画製作のアシスタントを勤めることになる。

 青年の父は、トルコ大使を暗殺しようとして殺されたテロリスト。青年の恋人である義妹は、事故死した自分の父親を不倫関係にあった青年の母親(美術教授)に殺されたと信じ込んで、恋人の母への復讐に燃えている。ゴーキーについての講演会で画家の自殺にふれた青年の母に対して、父の死の真相を糾弾する。
  母親と息子の喧嘩と葛藤・・、トルコの将軍役を演じるトルコ系移民の俳優と青年の衝突など、映画と現実と歴史の時間は混じり合い、錯綜(さくそう)していく。

 映画製作の進行とともに、青年はゴーキーの絵のなかの息子の像に重なるようにして、失われた故国で死んだ〈母〉とその民族の歴史の真実を求めて、映画の完成を待たずにヴィデオ・カメラを持って、アララト山麓の土地へと旅立つ。
  旧約聖書に、大洪水で流されたノアの方舟が漂着した山として記された聖なる山・・。第一次世界大戦のさなか、その山麓のトルコ東部ヴァンの自国内居留地に住むアルメニア人をロシアの侵略への怖れを理由にトルコ軍が殺戮。その犠牲者は、100万人以上といわれる。

 「この地に来て、失ったものの大きさを知った。土地やいのちだけでなく、思い出すすべもなく、起こったことの証(あか)しさえない虚しさ・・」

 そこで青年はゴーキーの母子像のさらに奥にある作品の秘密ー石碑に刻まれて残るアララトの聖母子像を映像に収めて、映画がプレミア公開されるカナダへ持ち帰るのだが・・・。

 現在のなかで起こっている個人的な愛憎のドラマの根が、いかに消しがたく時をこえた民族と歴史の〈抹消された記憶〉につながっているかが、時間を往還して進行する映画そのものの構造と流れに説得力をもって描かれている。   
 それはヒトラーがユダヤ人虐殺に関して「アルメニア人の虐殺を誰がおぼえているか?」と言った悲劇が、いまだにトルコによって認められずにいる歴史の現在を、そしてまた、いまも明日も、べつな場所でくり返される人間の運命があることを伝えようとしている。

 「なぜ胸が痛むのか・・? 土地や祖先を失ったからではなく、いまも憎むからだ」

 監督・脚本のアトム・エゴヤンは、アルメニア系カナダ人。「エキゾチカ」(1994年カンヌ映画祭国際批評家連盟賞)、「スウィート・ヒア・アフター」(1997年カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞、審査委員グランプリ)など。

2002年カンヌ映画祭正式出品。同年カナダ・アカデミー賞5部門受賞作。

販売元:アートポート/時間:本編115分・特典映像30分/4,935円(税込)

(2006/6/5 update)

 
 
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