ノスタルジア
失われた世界への冷めることのない感情
クリスマスが近づくと、タルコフスキーの映画が観たくなる(この稿を書いているのも、クリスマス前である)。そのなかに登場するバッハのミサ曲やダ・ヴィンチの聖母像もふくめて、多くの日本人にとっては異教のそれでもある宗教性が厚く盛り込まれているからだろう。
「ノスタルジア」の最初のほうで、ロシアからイタリアにやってきた詩人が訪ねようとするのも、ピエロ・デッラ=フランチェスカの「出産の聖母(マドンナ・デル・パルト)」である。詩人は、レオナルドの絵から抜け出したマドンナのような通訳の美女に導かれて、教会の地下礼拝所にあるというその絵のそばまで行きながら、結局見ることを避ける。
この作品は「ストーカー」(1979)をつくった後、ソビエトでの映画製作に限界を感じたタルコフスキーが亡命を覚悟で西側へ出て、最初に撮った映画である。いまからふり返れば、その後には遺作になった「サクリファイス」(1986)を撮る時間しか残されていなかったことを、わたしたちは知っている。
表現の自由をめぐるソビエトでのさまざまな軋轢(あつれき)から逃れて、それまでの諸作のなかにもその絵画をなんどとなく映し込んできたダ・ヴィンチの土地へようやくたどり着いて、そこで撮った映画のテーマが、「望郷(ノスタルジア)」だったことに心動かされる。
この映画のなかで、18世紀にイタリア各地を放浪して、ロシアにもどれば捕まると知りながら帰国して自殺した農奴出身の音楽家の足跡を訪ね歩いた詩人は、最後にトスカーナに残る寺院の廃墟の内に舞う粉雪とともに現れるロシアの風景に包み込まれる・・。
タルコフスキーの作品を知る者であれば、この驚くべきシーンの展望はまた「鏡」(1975)のなかで、母の追憶とともに謳(うた)われていた場所への回帰であり、「惑星ソラリス」(1972)では、宇宙空間から地球に帰還した主人公が抱かれる母なる大地であると気づくだろう。
タルコフスキーは、ロシア語の〈ノスタルギア〉があらわす感情について、「帰ることのできない自分の故郷に関して、ひとが経験する死にいたる病いのことだ」と語っている。西欧を旅したドストエフスキーも手記のなかで、同様の感情を吐露している。この映画は、そうしたロシア人の心性の奥にある情念の表現であり、タルコフスキー自身は亡命先での客死によって、その運命を全(まっと)うすることになった。その意味では、予見的といえる作品である。
霧の中のトスカーナの野や、狂信的な隠棲者が世界の救済を叫んでマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をとげるローマの広場のシーンなどは、たしかにイタリアの風光を印象づけるようだ。しかしながら主人公のロシアの詩人が登場するシーンの大半は、ホテルの部屋や廃墟の内部空間(ー観念的な)の連続であり、イタリアの場所の特性は、むしろ全体に排除されているともいえる。
霧につつまれた丘陵を女たちや犬が、スローモーションで駆け下りていく場景にしても、ほんとうはこの世の光景なのかどうかさえ、定かではない地帯へ潜在意識を誘っていく誘い水ようだ。そのファースト・シーンの夢幻は、ロシアのイコン画家の生涯を描いた「アンドレイ・ルブリョフ」(1967)(本サイトのCINEMAバックナンバーで紹介)のはじまりの感触に似ている・・。
〈ノスタルギア〉は、また他者への同情であり、さらに他者の苦しみを自己に引き受けることであり、その地点で「精神的なコミュニケーションの不在」が探求される。「自分の映画は、現代世界で失われた精神性やたましいの成長へのノスタルジーを表現するものだ。わたしたちは、いまや迷える犬のような者だ」とタルコフスキーは言う。
ピエロ・デッラ=フランチェスカの「出産の聖母」は、懐胎して大きくなった腹部を包む青衣の正面が真ん中からタテに裂けている。それは、十字架に張りつけられて傷口から血を流す生まれてくる(イエス)の運命を暗示している。マリアの右手は、その裂け目を覆うようにお腹の上に添えられている。祭壇画の聖母像は、19世紀の終わりにトスカーナの墓地の地下礼拝所で再発見された。
聖母への礼拝は、ただ授産という現世利益を目的とするかたちのみで存続されて、聖カテリーナが沐浴(もくよく)したという古代からの湯治場(モンテーニュも旅の途上に訪れている)は、健康増進ためのリゾートになっている。
ゴミの清掃のためにカラにされた温泉の浴槽のなかを、詩人は願をかけて、一本のロウソクを灯しながら渡ろうとする。
風に吹き消されながら、3度めに達成するそのシーンは、息づまるような緊張感とともに映画全体に求心力を与えている。全編に散りばめられた哲学的な問答や警句もさることながら、儚(はかな)くも果敢なその行為には、人間性の核心が示されている。
1983年カンヌ国際映画祭創造大賞、同国際映画批評家賞、同エキュメニック賞受賞
1983年イタリア/カラー/126分 発売元:パイオニアLDC株式会社/3,800円(税抜)
(2007/1/10 update)
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