鏡
共産主義国家で生まれた映像による〈唯心論〉の極致
タルコフスキーの映画のファンにどの作品が好きかと訊いたら、この作品をあげる人が多いのではないだろうか?それは、タイトルがあらわすように鏡に映った自分のこころの奧に広がる記憶そのものをモチーフとして、自伝的であるとともにもっとも詩的な作品であるからだろう。多分にドストエフスキーの影響が色濃いのが、この作品をあいだにはさんで作られた「惑星ソラリス」(1972)や「ストーカー」(79)、そして「ノスタルジア」(83)であるとすれば、「鏡」(75)は、主人公のナレーションがはいるところもよりプルースト的であり、まさにタルコフスキー版の「失われた時を求めて」といえる。タルコフスキー自身の朗読で全編に添えられた父である詩人アレクセイ・タルコフスキーのロシアの風土に根ざした叙情詩は、その特色をいっそう深めている。
映画は、病床にあるらしい主人公が母の面影を重ねる妻と別居した状態で、妻に自分の回想を語りかけながら進行していく。詩の朗読に加えて、全体にナレーションとなって表れる主人公の意識は、この映画におけることばの役割をとりわけ重要なものにしている。
自分の息子と同じように両親が別れた少年期の記憶・・・。庭の柵に腰掛けて煙草を吸いながら帰らない夫を待っている母の後ろ姿。訪れた町医者とのチェーホフ的な会話。森のなかの祖父の家。木々の葉や草原をゆらして野辺を吹きすぎていく風。夜に燃え上がった納屋の火事(後に撮られる『サクリファイス』のクライマックス・シーンの元型)を戸口で見つめる兄妹。濡れた洗い髪からしずくを垂らしながら部屋に立っている母・・・。
どしゃ降りの雨の早朝、ずぶ濡れになってスターリン時代の巨大な印刷所に駆けつける若き日の母。夢に見た校正ミスは、悪夢に過ぎなかったと確認されるが、同僚の女性に「ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるスタヴロキンの妻にそっくり」だと非難されて、離婚をなじられる。駆け込んだシャワー室のお湯も水も出ないシャワーはソヴィエトらしいが、そこで女性の顔に浮かぶ(悪魔的な)微笑は、ドストエフスキーの劇中人物をおもわせる。
ロシアの田園のゆたかな緑と自然のエレメントに親しい記憶の映像はあざやかなカラーなのに対して、印刷所の場面や夢の映像、そうした個人史の記憶を分断するように挿入されるスペイン内戦、ソヴィエトの成層圏への気球実験、第二次大戦のベルリン解放、原爆のきのこ雲、中国の文化大革命、中ソ国境紛争などのモノクロームのニュース映画フィルムの断片・・・。
映画的な手法を大胆に駆使する一方で、田園のロケーションと自然描写のアニミスティックな光彩の深さには、ロシア移動派の画家たちの風景画や、必ず人間の内面に濃密に結びついた(モスクワの)アパートや田舎の家屋の室内の撮影には、ロシア文学や演劇の伝統の継承が濃密に感じられるところにタルコフスキーの偉大なロシア性がある。亡命後に製作された「ノスタルジア」や「サクリファイス」もこうした点では、ロシア(ソヴィエト時代)での作品に較べると、セット撮影の映画としてみえる。それは表現の自由といったレヴェルとはちがう、唯物論vs唯心論といった位相の問題を含んでいると教えられる。あらためてタルコフスキーにいたる芸術家を生んだロシアのような国に最大の共産主義国家が存在した歴史の不思議が思われるのだ。
鏡の中ほどにあらわれるレオナルド・ダ・ヴィンチの「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474年ごろ ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)は、レオナルド最初期の肖像画として名高いが、手の美しいことで知られたモデルの手の部分は今日失われて、素描に原画を想像するしかないのが惜しまれる。少年がめくる画集の最後にあらわれる祈りの手の表情を集めたページ、射撃教練を受ける冬のブリューゲルの絵を彷彿(ほうふつ)とさせる冬景色・・・。バッハのプレリュードやマタイ受難曲、パーセルの弦楽からの選曲など、この作品でもタルコフスキーの美術と音楽にわたる造詣がいたるところに発揮されている。とりわけベッドに横たわる母親が水の滴りおちる部屋で空中浮遊するあたりから、ラストにかけての、ロシアの田園のなかで一人二役だった母と妻、子供たちが交錯して時間が循環するシーンは、タルコフスキー作品に限らず、映画史上に残る映像詩の極致といえるだろう。
俳優よりも映像自体が、またどちらかと言えば男優のほうが印象がつよいタルコフスキーの映画にあって、「惑星ソラリス」のハリーというレプリカント役(ナターリア・ボンダリチュク、地上で死別した妻と二役)を例外とすれば、「鏡」のマドンナであるマルガリータ・テレホワという女優は、この作品によってロシア映画を代表するヒロインのひとりとなって、その面影を永くスクリーンの記憶にとどめることになった。
RUSCICO(ロシア映画評議会)によるこのDVDには、本編のほかに音楽を担当したエドゥアルド・アルテミエフによるタルコフスキーの映像を編集したヴィデオ作品や関係者のインタヴュー、「鏡」の撮影風景のフォト・アルバム、アレクセイ・タルコフスキーのプロフィール、出演俳優のソヴィエト時代の映画撮影ドキュメンタリーなどが収録されている。
(タルコフスキー「アンドレイ・ルブリョフ」、「ノスタルジア」については、本サイトCINEMAのバックナンバーを参照のこと)
1975年ソヴィエト/カラー・モノクロ/102分
発売元:アイ・ヴィ・シー /¥4,935(税込)
(2008/1/16 update)
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