1
プッチーニの歌劇『蝶々夫人』で、ピンカートンの帰りを待ちわびて歌う蝶々さんのアリア「ある晴れた日に」を紙名に冠した個人通信紙が、かつて多くのレコード愛好家の人気を得ていた。
こんにちのように、1枚千円を切ることが珍しくなくなり、ときには2百円3百円でもCDが買える結構な時代からは、とても想像できまいが、古くからのレコード愛好家は、いかにしてレコードを安く手に入れるかに腐心していた。
国産のレコードは、再販制度を隠れ蓑に、定価販売の建て前を崩さず、一向に安くならなかった。ましてや、当時の所得水準に占めるレコード価格の比率は、いまとは比較にならないくらい高かったことは、毎回のように触れるとおりである。送料、高い関税、高い物品税、円安の為替レートの条件下でも、欧米から取り寄せるほうが安かった。
だが、海外からの通信販売で、安く買える店を見つけてくるのが一苦労だった。インターネットで検索すればたちどころに情報が得られる今日とは次元がちがった。海外のレコード雑誌や、海外に滞在経験のある人などの情報に頼るくらいしかなかった。
熱心な愛好家は、自ら苦労して発掘した入手ルートの情報を独り占めすることなく、公開し交換し合っていた。情報交換の手段も、アナログ(つまり、手紙)であった。
愛好家たちの情報交換の要となり、「安く買う運動」の音頭取りとなって頼りにされ、海外業者との交渉に不得手な人たちには、英語での照会文やオーダーフォームの見本まで作って手取り足取りの伝授(伝導といってもいいくらい)をしている方があった。
古畑銀之助氏。そう、『ある晴れた日に』の編集発行人、その人である。
大阪万博(1970年)のころは、海外からレコードを取り寄せるにも、インターネットで注文し、航空便で受け取り、クレジットカードで決済するという便利な手段はまだない。発注には航空便とはいえ手紙、在庫を確認して所要の代金を為替で送り、船便で届くのを待つという気の長い話であった。一ヵ月なら早いほうで、二、三ヵ月は待つ覚悟が要った。
この待つ間の心境を、ピンカートンを待つ蝶々さんのそれになぞらえて名づけられたのが『ある晴れた日に』というわけである。(もっとも、待つ相手が、着いてから後の喜びと悲劇とでは天国と地獄のちがいだが。)
2
創刊は1971年10月、不定期刊であった。1994年2月、49号までつづいた。
発刊のきっかけは、古畑さんへの問い合わせがあまりにも多くなって、一人一人に返信しているいとまがなくなり、いっそ刷り物にして読んでもらえば負担から解放されるというものだったが、レコードの入手先や入手方法の情報交換のための媒体として号が重ねられたのではない。
『ある晴れた日に』の真価は、毎号の冒頭に据えられた、古畑さんの文章(エッセイでもあり、クリティックでもある)にあった。テーマも、書く内容も、字数も、いっさいしばられることなく、感じまた信じることを自由に書き、発信できる場があればという、かねてからの願いを実現されたことになる。
古畑さんは、第16号(1975年9月)の「論ずることの高さについて」で、吉田秀和の「ラヴェルのこと」(『音楽展望』)を例に挙げ、このエッセイが楽曲の専門的な分析などから論ずる専門家一般の手法をとらず(これまでの吉田さんの手法をはなれて)、ラヴェルのよく知られた逸話を素材に(つまり音楽の本題でなく、周辺の題材を手がかりに)、ラヴェルの人間像や思考の、みなが意識しなかった点に光をあて、俗論を排したラヴェル像を読者に提示して、みごとなラヴェル論であることを、まず私たちに納得させ、自らの書きものの範にしたいと、抱負を述べておられる。
音楽の基礎教育を受けていない者は、専門的な分析や専門用語を避け、中心テーマにとどまらず、「周辺」から切り込み「周辺」に論を広げる論じ方が望ましく、さらに、読む人を説得し、動かすだけの「高さ」をもっていなければならない。論じる内容、論じる方法において、低俗であってはならない、とう信念を持ちつづけられた。(そのことから、「御用評論」に堕することや、浅薄な造語、言葉の使用を嫌悪された。)
3
私は、音楽批評(レコードも生演奏会も)において、吉田秀和さんは当代第一人者だと思っている。音楽という専門領域だけでなく、美術、文学、歴史などひろい領域にわたって深い知識をもち、音楽批評、即、すぐれた文明批評になっている。加えて、独特の文体は文学作品としての魅力も備えている。
もし古畑さんが、音楽批評の専門家として、物書きのプロとして活躍されたなら、吉田さんに肩を並べる存在であることを広く認められたにちがいない、と思うのは私だけではなかろうと思う。
なぜなら、周辺から迫って主題以上のことを論じるという方法で吉田さんを目標としたいといわれるのは、自らを謙遜しすぎていると、傍目には思えるからである。古畑さんの論考はすでに文明批評に達している。たとえば、レコードの価格を論じても、流通や経済の観点からの批評があり、消費者の利益を損ねている規制の撤廃は、これまでも外圧によってしぶしぶ改革されてきたことの繰り返しに頼ることを願うほかないわが国の政治に批判の目が向けられている。ポーランドに滞在中の見聞では、社会主義(古畑さんは若いころはマルクスボーイであったという)のその後を予見する観察があり、洞察力は林達夫を思わせる、というようなことだ。例をあげればきりがない。
『ある晴れた日に』の読者の中には古畑さんはだしの物知りがいて、ときには逆に古畑さんが読者の示唆を受けることもあった(たとえばべーゼンドルファーとスタインウェイのちがいについて)。こういった読者と古畑さんのやりとりからも啓発されるところが多かった。
私など無知もいいところ。とても紙上での談論に加われるレベルでなく、遠まきに見ている(だまって読んでいる)だけで、教えられることばかりだった。
1989年1月には、『ある晴れた日に』から主な文章を選んで『ザ・レコード』が出版されている。(1989年1月20日、初版第1刷、羊書房)
この本に関するコラムの一つをご紹介(別掲)すれば、古畑さんは吉田秀和さんに並ぶほどの書き手であると、私がいう意味が理解いただけよう。
4
『ある晴れた日に』によって、シュニトケ、ペルト、カンチェリなどの曲を意識して購入リストに挙げるようになった。
あるときグレツキの第3交響曲のCDを買って帰った。同じメロディがレントで繰り返し繰り返し静かに奏される第1楽章、同じくレントで、ソプラノ・ソロの悲痛な第2楽章と静かな語りの第3楽章。聴き終えるや、テープにダビングして「ペルトよりすごいのを見つけた」と、知っていましたかとばかりに、古畑さんに送った。これはお釈迦さまの掌、古畑さんはとっくに同じ音源のLPを持っておられた。
44号(1989年12月)に、曲を聴き返し、熟慮しての古畑さんの「回答」が載った。この時に私の名が出たのが最初で最後。末席でご縁を得ていたという貴重な証拠として、全49号の中でもいちばん思い入れのある号である。
演奏家では、ユーラ・グレア、アントン・クエルティ、ローラ・ボベスコなども教えられたし、ロラン・フェニヴェシュを日本に招いてのサロン・コンサートに参加したりもした。
『ある晴れた日に』の読者の集いも催された。関西での会に、初回(1978年9月)をはじめ4回参加した。ここでの古畑さんは名ホスト、参加者一人一人に気配りを怠らず、退屈やはぐれ者にさせなかった。座談のうまさは形容に難い。
1993年の集いのプログラムに(この原稿を書くために古い資料をひっくり返していたら出てきた)、私の『廃盤セールへの苦情、タワーレコードをウハウハいわせている日本の流通事情、業者が買い占めているのか?「バークシャーレコード」』なる発言予告が載っている。何をしゃべったのか、いまでもおよその見当はつくが赤面の至りである。
5
バークシャー・レコード(以下、バ社と略す)は、いまではわが国で、いちばん人気のある海外通販業者になっている。ウェブには「爆社」なる当て字で、何日で届いたなどと、ゲームを楽しんでいるかのようなサイトがあったりするほどだ。
推量するに、日本向けの売上が、バ社の売上シェアの首位を占めているに違いない。だが、と思う。もし古畑さんが『ある晴れた日に』で紹介されていなかったら、今日のような「大ブレイク」はなかったろう。後年、古畑さんがバ社のオーナーと会ったとき、日本での業績の恩人と感謝されたという。
バ社はもともと、夏場にタングルウッドで開かれていたバークシャー音楽祭に集まってくる客めあてにレコードのディスカウント販売をしていて、音楽祭シーズン以外はアメリカ大陸向けの通販をしていた。
ある年、この音楽祭への途次、古畑さんはバ社に立ち寄られた。そのとき、日本への通販を打診し、応じるとの回答を得られた。そのいきさつを『ある晴れた日に』紙上で紹介されたことによって、日本の多くのレコード・マニアがバ社を知るところになったのである。1975年9月、第16号であった。
私がバ社からのレコードを初めて受けとったのは、それから5年も後の1980年10月になってからである。その2年前(1978年)、第1回の読者の集いで知己を得た人たちのレコード鑑賞の仲間に迎えられ、共同でのまとめ買いに加えてもらってのものであった。それまでは億劫なうえ、語学力がとぼしいこともあって自分で注文することはなかったのだ。
以来20年間、海外通販のほとんどをバ社からの通販によってコレクションをふやしていった。
バ社から送られてくるカタログに、オーダー・フォームや日本文の案内状が添えられるようになったのは、1995年、三洋電機の子会社、三洋電機貿易の一部門が、通販部門の事業拡大の一端として代理店になったとき、業務を担当した方の発案による。私はこの方を1995年の『ある晴れた日に』の読者会に誘った。
バ社への注文は、三洋電機貿易へ国内電話のファクスを送るだけでことたりるようになり、便利だけでなく安心も加わった。トラブルが起きれば同社が交渉を引き受けてくれるといい、英語の作文に頭を悩まさずにすむので、おおいに利用した。
しかし、事業の採算がとれる見込みが立たず、同社が手を引いてからは直接バ社宛ファクスで注文することになった。ファクスを送ってからちょうど1週間で荷物が届くようになった。船便が、手違いでインドまでさまよい、半年かかって届いたこともあった時代とは隔世の感がある。このころが、私が、バ社からいちばん多量に買っていた時期であった。
インターネットが急速に普及して、バ社もウェブ上で検索し、バケットに入れて注文する方式をとるようになってからは、カタログを送るのをしぶりだした。請求すれば送ってくるものの、資源の節約のためウェブを利用してもらいたいというようなコメントを入れてくるようになった。
探している盤を検索で見つけるのでなく、何か掘り出し物がないだろうかという探し方ではウェブでの検索は不向きだ。保有のものと重複しないかをチェックしていくには、もう1台のパソコンで蔵盤リストを開いておかねばならない。何千行ものファイルをスクロールしたり並べ替えたりと、印刷物にくらべ面倒このうえない。結局、ウェブ・カタログで注文した(それもいったん紙にプリントしファクスしたのであって、クレジットカードの番号をインターネットで送ることは避けた。羮に懲りた経験はなくても膾は吹く)のは2001年12月の1回きりで、バ社への注文もそれが最後になった。DHLなる運送業者が突然5百円の手数料を乗せてくるようになった独善も(こちらからサービスのよい運送便を指定することができない)注文しなくなった理由のひとつになる。
バークシャー・レコードでの購入記録
 |
バークシャー・レコード カタログ
1982年7月発行
97頁、140×217mm
最近の充実したものとは比ぶべくもない。 |
6
古畑さんのことについては、私など訳知りに語るような立場にない。片腕とも同志ともいうべき人たちがおられる。そういう人たちこそ語っていただくにふさわしい。だが、ネットやレコード雑誌などで、バ社をもてはやす様子をかいま見ていると、どうしても知っておいてもらいたくなって、僭越をかえりみず一文とした次第である。私の事実認識に誤りがあればご教示いただきたいと思う。
『ある晴れた日に』が1994年2月の49号で止まったままになったのは、古畑さんが1980秋に病魔に襲われたことに起因する。
2003年11月17日、二度と謦咳に接することはできなくなった。87歳。合掌。