1
いまでは企業がエネルギーの排出や環境保全にいかに取り組んでいるかを社会に示すことが、企業の存続にとって重要な要素であることを意識して行動するようになっている。 しかし、そう遠くない過去、高度成長を謳い、大量生産大量消費で国中がいけいけどんどんと沸きかえっていた時代、環境を守れなどという声はむなしかった。企業も政府も多くの国民も聞く耳を持とうとしなかった。
水銀やカドミウムなど毒性の強い物質のたれ流しによる公害病。そして、ヘドロによる海・河川の生物学的な死。排気ガスや排煙による光化学スモッグや健康被害。農薬や化学肥料による土壌や作物の汚染。さらには化学物質の添加による危険な食品。社会的インフラの許容量を超えるクルマの洪水による事故死や都市公共交通の破壊。工業労働力として都市への人口流出による農山村の過疎化や山林の荒廃による自然災害の多発。等々。
こんなことが、最近になって明るみに出てきたアスベスト被害のように、つぎからつぎに起こっていたのである。これはおかしいと、多くの人が気づくには不幸にも生け贄のように被害者を出したあとである。だが、いつの時代も、人々より先に問題に気づき、警鐘を打ち鳴らす人はいる。冷静になれば、その声が聞こえるはずなのだが、熱狂したマジョリティには通じない。逆に「何をよけいなことをいうのだ」とばかり敵意をもって排除される。
2
1974年から75年にかけて朝日新聞に連載された有吉佐和子の『複合汚染』は、農薬や化学薬品による作物や食品の汚染にようやく気づきだした読者である消費者大衆の大きな反響を呼んだ。著者は幾人もの警世の士の苦難の活動を紹介し、讃えた。
そのなかのひとりに著者が華岡青洲に見立てた人がいた。「私がこの仕事にかかってから出会うことのできた最も立派な方を、今日から御紹介します」の書き出しで始まり、「小説『華岡青洲の妻』の作者がこうして吉野川と紀ノ川の接点で、昭和の青洲に出会うとは、なんという因縁であろうか」と紹介した人は、奈良県五條市で開業医をいとなんでおられた梁瀬義亮先生であった。
1955年、梁瀬先生は粉ミルクによる乳児の健康異常が砒素が原因と気づき、保健所や製造会社、心当りの大学等に注進されたが相手にされなかった(これが、のちに森永砒素ミルク事件となってひろく関心を呼ぶことになった。先生の長男も被害者である)。
1959年には、『農薬の害』を自費出版され、これが新聞にとりあげられるや大きな反響を呼んだ。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は、化学物質による環境汚染に世界で初めての警告の書となった名著だが、それが著者の国アメリカで出版されたのが1962年、わが国で訳書が出たのが1964年であったから、先生の警告のほうが先んじていたということになる。
先生は、健康と食物の関係に注目し、早くからデータを集められた。そして、健康には野菜、ビタミン、ミネラルが重要との結論に到達されていた。
患者にも野菜を多く摂ることをすすめられた。しかし、先生の指導に忠実に野菜を摂る人にかえって病状が悪くなったり、先生の家庭でも、父親である先生のいうことを素直に聞いてよく野菜を食べる息子さんが体調をこわし、いうことを聞かず野菜ぎらいのお嬢さんが元気なことに、野菜に何か原因があるのではとの疑いをもたれた。
それもそのはず、農業では1953年ごろから、パラチオン、エンドリン、フッソール、水銀剤など、猛毒性で、残留期間も永い農薬がさかんに使われていて、野菜の日持ちをよくし、色合いをきれいに見せかけるため、パラチオンの千倍溶液をかけて出荷されていたのである。
先生は自分の推論を検証するため、自宅でキャベツを作り、計画的に農薬を撒き、自ら食してどんな症状が出てくるかを「人体実験」された。そして、患者の診療でみられる症状とおなじであることをつきとめ、農薬の害であることを確信された。
『農薬の害』の出版は、その結論の公表でもあった。先生はパラチオンの使用を即刻やめるようにと訴えられた。新聞の取材が殺到し、一躍耳目を集めることになった。五條産の野菜がいっぺんに売れなくなった。
野菜が売れなくなって、先生は生産者や市場関係者から呼び出しを受けた。総勢百人を超える。「やってしまえ」という怒声。先生は禅の姿勢で仏陀を念じ、泰然として警官がかけつけてくるまでの四時間ものあいだ、応酬された。「私の真心が通ったのだろう。大勢の中の誰かが警察へ知らせたのだ。」と、のちに『生命の医と生命の農を求めて』(1978年、柏樹社)で、この事件に至るいきさつを詳しく書かれているが、剣道の達人でもあったから、その気迫にのまれて、だれひとり手を出せなかったのにちがいない。
こうして、先生は自分で野菜作りを実践するほかない、との思いを固められるようになっていく。
3
1970年だったか71年だったか、梁瀬先生がいよいよ無農薬・有機農法の農場を拓くため、五條市郊外の山を譲り受けられたという地方版の記事を目にした。先生が高所に立って開墾の予定地を見渡しておられる写真が添えられていた。私は農業や安全な農産物・食品に関して、つもっていた思いを先生に書き送った。
71年だったと思う、ある日先生が拙宅をたずねてこられた。しばし私の話に耳を傾けてくださったあと、私のオーディオ装置とレコード棚に目をとめられ、話はクラシック音楽に移った。お互いにベートーヴェンが好きだということがわかった。
何曲かお聴かせしたが、ギレリスの『ワルトシュタイン』しかおぼえていない。あんまり感銘は受けられなかった様子だった。私もまだクラシック音楽については幼稚園児程度のおぼつかなさだったので、掘り下げた応答はできなかった(いまだにできはしないけれど)。
先生は帰り際、「きょう、こうしてお伺いしたのもベートーヴェンが与えてくださったご縁です」といわれ、いよいよはじまる農場の開墾に来てみないかと誘われた。
それ以後、農場が完成し、専従の職員が加わるころまで、毎週のようにお手伝いした。当初は大勢の参加者で山もにぎわっていたが、『複合汚染』が反響を呼ぶころには、先生と息子さんと私の3人だけという時が多くなった。
仕事が終ったあとは、奥さん手づくりの夕食をごちそうになった。晩酌つきで。そして、仏教のこと、生き方のことなど、先生の話に耳を傾けた。高僧の説教を独り占めにしているにひとしい、いまとなってはかけがえのない時間をいただいていたことになる。あげくには泊めてもらうようにもなっていた。
(もうひとり、最後まで農場づくりを手伝っていた人がある。Mさんといって、当時は大学生だった。この人のことはあとで触れる。)
『複合汚染』に先生が紹介された直後というもの、しばらくのあいだ、ちよっとした立場を称する人(つまりは一般庶民ではないという意味で)たちが押しかけてきた。かねてから先生に敬服し、ずっと見守ってきたなどという。それなら、名前が出て急にやってくるのでなく、農場開墾の一回でも来たらどうかと、にわか「旧知」たちの来訪を、私はにがにがしい思いで見ていた。
4
先生はお寺さんの生まれである。10歳のとき、伯母さんの死に直面し、死とは何かを幼な心に考えるようになったという。中学(旧制)に入ってからは仏典を読むようになられた。
そういう下地があってというべきか、先生は医者であるとともに、いや、医者である以上に、信仰の篤さにおいて、どんな高僧もおよばないほどの仏教者であった。死の直前まで、月1回、30年以上もの間、450回にわたって「仏教会」を開かれ仏道を説きつづけられた。先生の診察を受けて病の癒えた患者、農法の指導を受けて農薬禍から健康を取り戻した生産者ら、多くの人たちは先生に感得された。
1973年、先生は仏に近づくもうひとつの方便を思いつかれた。それは、これまでの35年にわたって聴いてきたベートーヴェンの音楽を通じて仏の道を説こうという試みであった。それは「べートーヴェンにきく」という会になった。ベートーヴェン「を」きく(聴く)のでなく、ベートーヴェン「に」きく(聞く)のである。
ベートーヴェンは32歳のとき、耳が聞こえなくなるという絶望から、あの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた後、大霊感を得て神の実在を感得した。神とは人間を超えた無限次元の実在という意味である。禅でいう悟りといってよかろう。
「ハイリゲンシュタットで遺書を書いて、いよいよ死に向かっていこうとしたときに、高い次元の世界を見たわけなんです。そして再び宗教家としての、大霊能者としての音楽を作っていった。それが私のベートーヴェン観なんです。」(「べートーヴェンにきく」会での先生の講話の筆記より)
だから、ベートーヴェンの演奏は、人間の次元での解釈にとどまるなら、美しいという以上の音楽にはならない。高みの実在を信じる敬虔な気持ちがのりうつってこそ、ベートーヴェンの魂を感じる感動的な演奏になる。聴く者も同じことである。先生がベートーヴェンに聴き入られるときは結跏趺坐であった。(蛇足ながら、ブルックナーもベートーヴェンに通じるところがあるようだと、私は思っている。神の存在を感じる。)
いつか先生から「ポール・トルトゥリエが、ベートーヴェンは音楽の世界のお釈迦様だといっていた」と聞いたことがある。出典まで確かめておかなかったのはうかつだったが、仏教国でない演奏家でも、真の芸術家の魂は、同じことを感じとっていたということなのだろう。(「お釈迦様」という表現は先生なりに咀嚼しておっしゃったものかと思う。)
「ベートーヴェンにきく」会、3回目の1973年11月に、私はたまたま他のことで取材を受けていた朝日新聞奈良支局の記者を誘った。そのときの記事をでご覧に入れる。
会は、月1回、まる3年、おもな曲を全部聴き終えて終了したが、先生亡きあと、托鉢をついで、いま狭山の音楽喫茶で会を開いている人がいる。さきに述べたMさんその人である。この朝日の記事で記者のインタビューを受けている。(上記の講話の筆記は、このMさんがテープから起こされたものである。)
梁瀬先生は1953年5月17日、73歳で、長男の義範さんとともに「田園」を聴きながら旅立たれた。ことしは13回忌の年であった。合掌。